長ーい愚痴と自分語りです。動物のタヒが出てくるので、ご注意。
当時の私、中学3年。同じ町内に住んでいた
叔父夫婦(母の弟夫婦)の息子、従弟A、小学5年。
Aが無断でうちで飼っていた犬を連れだし、死なせた。
以来、誰も一言も、そのことに触れない。
私はデブスで、学校で「汚い」「ブスがうつる」といじめられていた。
救いは、飼っていた犬だった。毎日散歩に行き、河原で遊んだ。
犬と寄り添って腰を下ろし、愚痴を聞いてもらった。
可愛がってくれた祖母がなくなった時は、抱き合って泣いた。
Aはこの板で言う「託児子」「放置子」。叔父と叔母はともに
「だらしない」(母談)人で家に居つかず、Aは赤ん坊の頃から
毎日のようにうちに来ていた。
Aは母がうるさく注意したおかげで勉強はできたが、叔父そっくりで
「人前でいい格好をする」ため近い人に迷惑をかけていた。
たぶん、犬を連れだしたのも、友達に見せて「うちには犬がいるんだ。
俺の言うことなら何でも聞くんだぜ」とか言いたかったんだと思う。
(犬は私の言うことは何でも聞いたので)
昔は、犬は屋外で飼うのがふつうだった。うちも庭に犬小屋を置いて、
鎖でつないでいた。Aは私が学校、父は会社、母は買物でいない隙に
うちの庭に入り、散歩用のリードは家の中なので、つないでいた鎖ごと
犬を連れだした。
しかし私の言うことしか聞かない犬だから、Aには制御できず、
以下は、たまたま見ていた近所の人Kさんの話。
犬はAの手を振り切って車道に飛び出し、
折り悪く走ってきた車にはねられた。Aは途端にどこかへ逃げ去った。
車の運転手こそ災難で、車を停めて出てきてくれた。
たまたま交番の真ん前で、お巡りさんも駆けてきた。
Kさんはうちまで走って、ちょうど帰ってきた母に伝えた。
交番で話を聞かれた後、母とKさんとで、お巡りさんのくれた段ボール箱に
犬を収容して運んできた。そこへ私が帰ってきた。
54の続き。
私は顔が腫れあがって形が変わるほど泣いた。
学校でも心配されて、いじめもその間はぴたりとやむほどだった。
Aはうちに何の報告もせず、しばらく来なかった。
Aの両親である叔父夫婦からも、何の連絡もなかった。
やがてAは「ほとぼりが冷めた」と判断したようで、
回数は減ったがまた現れるようになった。私はAを避けた。
向うから何か言って来るまで、話したくなかった。しかしAも私を避けた。
その後、叔父夫婦は離婚し、叔母はAをうちに置いて逃げた。
大人になってうすうすわかった。
叔父叔母の不仲の間で、Aがだんだんゆがんでいったこと。
犬を死なせたことを私の母に言えば、唯一の頼れる大人である母に
叱られる、嫌われることが怖かったんだろうこと。(どうせすぐばれるのに)
叔父叔母にもおそらく言ってないだろうけど、それは、叔父夫婦が子供の話に
耳を貸す気持ちがなかったからだろうこと。(今でも知らないだろう)
私の父母がAや叔父夫婦に何も言わなかったのは、だらしない上に別れ話で
もめている彼らに関わりたくなかったんだろうこと。(でもAを押しつけられた)
Aはうちで暮らしたが、私とは関わらない状態が続いた。
1、2年ほどして叔父が再婚し、Aを引き取って遠くへ越していった。
親族の集まりで何年かに一度はAと顔を合わせたが、私とは話さなかった。
そして先日、また集まりがあってAもいたが、もう30年もたつんだしと思って、
親族との世間話の合間に、Aに「そういえば昔、あんたは私の犬を連れだして、
死なせたことがあったよねえ」と軽く言ってみた。
Aは「あー、(車にはねられて)あんなに血が出るとは思わなかったよぉ」
それだけだった。私はもういい年のおばちゃんだが、本気で殴りたいと思った。
私もいくつか修羅場を経験して、犬を失うよりもっとつらい場面もあった筈なのに、
いまだに、「最も腹の立ったこと」「最も悲しかったこと」の1位に
このことが居座っている。思い出すたびに苦しくなる。自分でおかしいと思うけど。
54―55の後日談。
犬の事故から数か月後。(Aがうちに押しつけられる前)
その時のお巡りさんからうちに電話があって、母が出た。
「あのねえ、さっき捨て犬が交番に届けられたんですが、困ってるんですよ。
このままじゃ保健所行きだし、……おたく、貧乏くさい犬、お好きでしたよね?」
たしかに私の犬は雑種で、「貧乏くさい顔」(父談)をしていた。
しかし何だって、お巡りさんにまでそう言われにゃならんのだ。
母は電話を叩き切り、家をダッシュで飛び出し、自転車を交番までぶっ飛ばした。
私が帰宅すると、前の犬より「もっと貧乏くさい顔」(父談)の仔犬が、
尻尾を振って出迎えてくれた。この犬は母と相思相愛で、天寿を全うした。
長々と失礼しました。